勧善懲悪と現実と取引

悪い人がはっきり悪くて
良い人がとことん良い。
  
そんな展開だと話がシンプルでわかりやすくなり、
悪い人を憎むのに集中できて、
感情移入もし易く、良い人が勝つとすっきり爽快。
  
理屈はわかります。
よくできた勧善懲悪のストーリーは
私も時々楽しんだりします。
  
ただし、それをリアルな人生に持ち込むというのは
やっぱり考えものです。
  
良い者に感情移入している自分にも悪があり、
悪いと思う人にも善があり、
今ある大きな悪は、
そもそもは善かれと思うところから始まっていたり。
  
そんな現実を目の当たりにする度に
嗚呼、勧善懲悪というのはフィクションの中だけなのだな、と。
いや、むしろ最近のフィクションはリアルの要素を取り入れているので
フェアリーテイルおとぎばなし)の世界の中だけなのだなと思うのです。
  
そんな中でも
いまだに現実の問題を勧善懲悪の図式に落とし込んで
視聴者に届けようというニュースショーや記事を見ると、
この人たちは受け手をバカにしてるのかななんて考えたりして。
  
あるなしの偽証、偽装、いろいろと問題になっていますが
それも本当にたたかれている人間だけが悪いのか?
勧善懲悪の図式にして叩くことに便乗して溜飲を下げている
輩がいるのではないか?
ということを常に気にしながら情報に接している私です。
    
叩いても良いというお墨付きが出た途端に
詳しい確認もなく炎上させる最近の風潮に関しては
己の行為の醜さを、鏡を差し出して見せて上げたいと
常々考えてしまいます。
  
反対に
被害者意識を持ちすぎる方も
同じように苦手です。
自分は被害者で善だという、無自覚な決め付け、押し通し。
  
人間社会は年を重ねてわかるようになったのですが
すべてディール(取引)です。
政治も生活も
利益の配分、費用の配分、権利の配分、義務の配分
  
そのディールを行うにあたり、無自覚に善の前提を
押し付けられたりすると、取引相手は果たしてどう思うのか?
それは自分自身の人生においてよい取引となるのか?
今後も取引を続けられるのか?
  
己の醜悪さというところに目を向けて、
そこを自覚しつつ、
それでも主張しなければならないから主張する
という人と私は取引をしたいと思います。
    
そういう意味で
無自覚に「アナと雪の女王」って最高!
「ありのまま最高」とかいっている人とは
薄商いで終わる関係だなと考えてしまうのです。
  
ちなみに「アナと雪の女王」は私も見に行って
とても良いお話だと思っています。感動もしました。
  
ただ、あの話は無邪気にレリゴーとかありのままなんて
言える話でないような気がします。
どちらかというと
エルザの孤独と覚悟、アナの男気がポイントだと思っているので、  
己を省みない人の自己解放の道具にされているのを
目の当たりにすると作品が好きな分だけ考えこんでしまいます。
 
こういうことを言うと器が小さいといわれるのでついつい
生暖かい眼差しと沈黙で凌いでいる私です。
今後取引の規模を大きくしていかなければならない時には
そういうことに鈍感にならなくてはならないのかと反省したりもして。
    
ほほほ。