炎上と寛容の間

炎上といえば、ニューレディー的には映画「吉原炎上」ですが、
最近、炎上といえばブログやツイッターへ寄せられる批判コメントの嵐のことを指すようです。

私、この風潮があまり好きではないです。
批判が悪いということではないのですが
匿名もくしは匿名に近いことを理由に言葉の暴力を振りかざす様子は
見ていて辛いので近づかないようにしています。

たしかに有名人の言動には強い影響力があります。
彼らも人なので誤った言葉を使ってしまい、
結果的にある一定の人にとっては暴力になってしまうこともあるでしょう。
でもそれを同じく言葉の暴力で切り返すのは自らも同レベルになることだと思うのです。

そして忘れてはならないのは自らが放った言葉はやがて自分に返ってくるということです。
言葉は両刃の剣なのです。
私もかつて、辛い状況の時があって、
エッジの効いた言葉で人を批判していた時期がありました。
放置してある昔のHPの日記にも心が荒れていた時に吐いた暴言がたくさん残っています。

しかし完璧な人間なんていません。
自らの中に批判していた他者と同質のものが存在することにやがて気がつくのです。
いつか自ら放った言葉が、自らを傷つける刀になるのです。

私は自らの言葉に切りつけられ、負傷をしました。
人に会うのが怖くなった時期がありました。
若いころは自分が見えていなかったので、
エッジの効いた真剣でのやり取り以外は欺瞞だと思っていましたが、
人を切りつけた言葉は必ず自分に返ってくるのです。矛盾に苦しむのです。

ここで批判的にならず、寛容さこそが人間にとって大切だよとかいう意見もあるのですが、
私もまだまだ人間ができていないので、人の言動で頭にくるものはやっぱりあります。
ではネット上で遭遇したかちんと来る出来事に
どのように対処すればよいのでしょうか。
塩野七生先生の「ローマ人の物語」によると
古代ローマカエサルも「寛容」ということを唱えていましたが
実際のところは「軽蔑」と「スルー力(りょく)」で対処していたようです。
このリアルのコミュニケーションでも用いられている
「軽蔑」と「スルー力」が知らない人がたくさん情報を交換するインターネットでは
必要なスキルになってくるのではないかと思います。
指摘は教育という意見もありますが、それは見ず知らずの人がするのではなく、
不快な言動を行った人の友人が直接指摘すれば良いのです。

インターネットの発達は誰もが発信者になれるという状況を作り出しました。
そこにある情報は玉石混合でそれを受け取る側のリテラシーもますます
重要になってくるでしょう。

その時に
自ら発する言葉には霊があり、それはやがて自らにも返ってくるということ
自分自身を含め、人間には誰でも不完全さがあるということ
を理解し、
愛すべきものには愛すべき言葉を発し、
愛しがたいものには無言の軽蔑と無関心、スルー。
知り合いだったらこっそり忠告
といったリテラシー
もっと広まったら良いのになと思ったりするのです。