鈍感に対する恐れ

一昨日、人間はよくできたセンサーで、
私はそこから感じたことを大切にしたいということを書きましたが、
他方で物事を進めるには鈍感に
ならなければならないという意見もあります。
その能力を鈍感力と呼んで持て囃した時期がありました。

実は私もそうかもしれないと思って、乗っかった口でした。
(ミーハー)
鈍感になって押し通す。私はあまり感じないようにし、
身体から起こる悲鳴も気付きながら、
仕事に邁進した時期がありました。
その結果病は大きくなり、周りに余計に
迷惑をかけてしまったことがありました。
親との関係も自分を殺して、
この人が死ぬまで騙せば誰も傷つけないで済むと
自分を殺そうとして、更に自分を傷つけた時期がありました。

身体も心もボロボロになった私は、
ある日、未来が何も見えなくなって、
辛くて立ち止まりました。
そんな経験から今は思います。
感じている信号を無視してはいけない。
感じた信号の意味を考えなければならない。

感じることで、人は初めて気付きます。
感じないと人は一生気付けないままです。
私は気付きの少ない人生を望んでいません。
立ち止まっている時間が勿体無い、
沢山のことをしたり生み出すことで
人生は豊かになるという考えもあるようですが、
立ち止まった時間、落ちて行く時間があったから
気付けることも沢山あると今は信じています。

高度なセンサーを活かしながら、
感じたことを考え、そこから好奇心を持つこと。
一番怖いのは感じなくなり、
好奇心を失い、思考停止になることだと思うのです。

反面、感じることを傷つくことだと捉え、
傷つくことを恐れ、何も感じなくなることを
選ぶ人もいます。

確かに感じることは痛むことかもしれません。
でも痛んでも感じることで
対処法や備えや原因を考えることができるように思えるのです。
先のことを考えることができる。
それはつまり明日を考えることができるようになること。

今日だけ考えて生きればいい。
そういう考えもあると思いますし、
それで生きることができるのも確かです。

痛みを恐れて感じなくすることで
今日は乗り切れるかもしれません。

でも明日なにしよ?
と考えることが私は好きです。
先を考えると不安ということもありますが、
痛みを羅針盤に、感じ、考え、今日を生きながら
明日なにしよ?って。

感じることは欲張りさんの証なのかもしれませんね。
ふふふ。