かなしみの裏側

前回の記事で私は「かなしみ」好きと書きましたが、
(ふふふ。この部分はフィクションではありません)
何でそんなに好きなのか、しみじみ考えてみました。
「かなしみ」とは自分の描く理想とのギャップに対して起こる感情で、
思い通りに行かないことについて人は「かなしい気分」になるのです。

でも、理想と現実のギャップというところには
もう一つの側面があります。それは「笑い」です。

ギャップをどう捕らえるかによって、
悲劇にもなり、喜劇にもなる。

私がかなしみ好きなのはかなしみの裏側に
実は喜劇が潜んでいるからかもしれません。
可哀想といいながら面白がる自分がいます。
不謹慎だと思いつつも、
その矛盾を心の何処かで面白がる自分がいます。

たとえば子を産めないおばさんをいじめる姑や小姑も
なんでそんな馬鹿みたいなことでえばったり、
人を傷つけたりするのだろう。というところから興味が湧き、
もしかしたら、その一点で自分の存在価値を保っているのかも
とか、それ以外は容姿も能力もないからこれを武器に攻めて
いるのかもということを考えてしまうのです。

おばさんも言い返さないのはそれを言ったら倍返しされるとか
いろいろな計算が働いていたのでしょう。
そういうことに関する好奇心が止められなかったのです。

つまり何が言いたいのかというと
私はエレガントなレディーを装いながら、
下世話で俗な人間だということです。

生きていくことは好奇心との付き合いです。
自分が俗で下世話だということを重々承知して、
それ以外のところではエレガントにフェアにいきたいものです。