プログラムで動いている

人間とコンピューターというのは共通点が多いものです。
そもそもコンピューターが人間を参考にして作成されているからだと
思いますが、コンピューターを通じて人間に対する見方や考え方が
変わってきたように思います。
 
たとえば人間の無意識の習慣や癖というのは
コンピューターでいう、自動プログラムのようなものです。
意識を使わないでも、勝手に動いてくれます。
歩くこと、動くこと、しぐさ、話し方など
無意識でこなしている動作がたくさんあります。
 
自動プログラムは長い年月の経験や教育から蓄積されて
組まれたプログラムなので、その人の無意識な言動にこそ
その人の人生が如実に表れるような気がするのです。
 
寒い国の人が、ゆっくり動いていたら凍えてしまうから
比較的ガシガシ動いたり、
暖かい国の人は早く動いた方が熱くなるから
比較的のんびり動いたり、
動きを見ているだけでも、出身地や親の教育などをいろいろ想像してしまいます。
ヨーロッパで起こっている南北問題も
やっぱりこういった基礎的な行動プログラムに起因する国民性、生産性の差異が
加盟国間の軋轢を生じさせているように思います。
 
私は千葉県という何とも中途半端なところの出身なので
どちらとも言えないところもありますが、南関東ということでは
わりかし温暖な気候で育ったので、のんびりしているのかもしれません。
近い印象・感覚を持つのは静岡県民だったりします。
何故かお友達も気候が近い静岡の人が多かったりします。
 
無意識のプログラムというのは
変えようがないのか?
という問題がありますが、
私はそうは思っていません。
 
プログラムは必ず更新され続けているのです。
WINDOWSMACのOSが更新され続けていくように。
 
教育や育った環境が悪いからといった諦め
それも気持ちは分からなくはないのですが、
プログラムは自分の意志で更新できるというのを
忘れてはならないのです。
 
あまりに急激に変えても、新たなバグ(動作不要)が
起こるかもしれませんが、更新し続けることで
人は変わっていくのです。
 
一方で変わりたくない、更新したくないという人もいて良いとも思います。
それはそれでその人の考えなので。
今の自分のプログラムを愛している人もいると思いますし、
愛する人のために書かれたプログラムを守りたいという人もいると思います。
 
たまにそういう人を見ると
天空の城ラピュタに出てくるラピュタに残されたロボットのように見えて
切ない気持になり、愛しく思える時もあります。
 
人間をコンピューターのように見てしまう。
私は不謹慎なレディーなのでしょうか。