共感を目的にすることへの抵抗

共感という言葉
最近いろいろなキーワードになっている言葉です。
 
私も共感自体は悪いことではないですし、
共感することも実際にあります。
 

 
最初から共感を目指すのはいかがなものかなと思います。
そんなに共感しなければいけないのでしょうか。
今はいろいろな意味でスゴイことになっている浜崎あゆみさんが
渚のシンドバッドという映画で募金を強要する周りの女子生徒に
「そういうの同情ファシストって言うの!」って一喝していたのを思い出します。
 
そんなにみんなと一緒でなければいけないのでしょうか?
そんなにみんながわかるものでなければいけないのでしょうか?
 
私は共感できないものがあっても良いという立場です。
親子関係でもわかり合えないことがありますし
恋人関係でもわかり合えないことがありますし
友達関係でもわかり合えないことがありますし
ましてや他人
 
自分と他人が違うということを知ることの方が
私は大切だと思うのです。
そうやって自分が何者かを知ることの方が大切だと思うのです。
自分はこういう人間だということを人とは違うかもしれないけど
打ち出すことが大切だと思うのです。
 
結果としてそれが共感を呼んで
繋がることができたら、素敵なことだと思います。
 
だから、最初から共感を目的にすることに抵抗があります。
共感されてもされなくても、さりげなく自分をアピールした方が
よいお友達ができるように思います。
 
といいつつ、私、ツイッターフェイスブックもアカウントだけは
ひっそりと持っています。
現代のトレンドを監視するためです。
繋がり目的ではありません。監視です。
ほほほ。