寛容の限界と軽蔑

私は肉体的な暴力を伴った喧嘩というのを
生まれてからしたことがありません。
 
殴り合いの喧嘩、取っ組み合いの喧嘩。
思い出せないだけかもしれませんが、
私が覚えている限り、ただの一度もありません。
 
それは私が肉体的な暴力を憎んでいるからです。
もうそれは軽蔑という言葉ではすまないくらいの憎悪。
  
寛容にとは思いますが、
暴力にだけはどうしても寛容になれません。
自分でも驚くほど、憎悪の感情が涌き上がり
あらん限りの呪詛と軽蔑と反抗と復讐(暴力を伴わない制裁)を考えます。
 
小さい頃、誰かに暴力をふるわれたとか
虐められたという経験もありません。
私は頭を使って、そういうターゲットになるのを
かわして生きてきました。
だからそういうトラウマはまったくないはずなのです。
なのにこの嫌いよう。
 
そういえば、そういう体質が嫌いで
中学校や高校時代に体育会に所属しませんでした。
理不尽な力による服従というのが生理的に無理だったのです。
体罰や先輩からの暴力というのも耳にしていましたし。
  
そのせいか私にはいまいちSMというのもピンと来ません。
やられたら拒絶しますし、やっても何にも気持ちよくなりません。
暴力が、ある人にとってはエロスの要素だというのも
頭ではわかっています。でも私にはまったくない要素です。
同じようにCHAGE & ASKAさんの「YAH YAH YAH」も
実はまったく共感できません。あれ、一種の恫喝の歌です。
  
これは別に私が善人だって言いたいわけじゃないんです。
私はそれなりに悪いです。
酷いことも意地悪もいっぱいします。
人を追い込むこともありましたし、陥れたこともあります。
言葉や態度や嘘で人を傷つけてきています。 
 
でも物理的な暴力、恐喝、恫喝というのだけは
どうしても耐えられないのです。
  
先日飲みに行った先でそういう輩を久々に目撃しました。
直接被害はなく、関わることもなくすぐに退散しましたが、
その後もずっと気分が悪くなりました。
  
これは弁が立つものの傲慢なのでしょうか?
  
私は右の頬を打たれたら、逃げ帰って
全力で叩いた奴を追い詰める方法を考えます。
ペンは剣よりも強し、かしら。
 
力と暴力で服従させる人間には
とにかく憎悪の感情を掻き立てられるのです。
私は前世でそうやって死んだのかしら?
なんて非科学的なことも考えてしまうくらい。
  
ちなみにお店に出ていると、お酒を飲んで酔っ払って
人をバンバンと叩く方がたまにいらっしゃいます。
あれ、私の中では愛情表現じゃなくて暴力としてカウントしています。
私は全部覚えています。そういう人とは絶対に友達になりません。
  
ほら、良い人じゃないでしょう。
みんな仲間なんて言わないんだから。
ドラゴンボールも暴力漫画だと思って興味が涌きません。
同様にワンピースも興味が涌かないのです。
  
寛容の限界、それは私にとっては暴力なんだなと改めて思いました。
そうさせないために、私は身体を多少は鍛えて
なめられないようにしています。
  
ニューレディーがちょっぴり屈強なのは、
服従の前に、相手に暴力をさせないための
最低限の鎧が必要だったからなのです。