食物連鎖

先日の記事で
生き物がたくさん生まれる場所=生き物がたくさん死ぬ場所
という趣旨のことを書いて、
あの亡骸達はどこに行くのだろうと考えていたのですが、
私、すっかり都会っ子の発想だったなと気づきました。
  
死んだ生き物は生きている他の生き物に食われるのです。
  
人間の場合、一部地域で鳥葬などがありますが、
病原菌が繁殖するのを防ぐためかで火葬して埋葬するという方法を取ります。
なんとなく自分達は食物連鎖の鎖から外れた場所にいるという
人間の傲慢さというのも感じます。
  
でも実際問題、都会で人が腐敗して分解されるのを待っていたら
それこそ膨大な場所と時間がかかり、病原菌の繁殖のリスクもあり、
社会の維持コストとして見合わないというのも理解できます。
  
よく考えれば
私達も他の生き物を捕食しながら生きています。
それは製品という形でわかり難くなっていますが
私達が日々、間接的にせよ何かを殺しながら生きているということは。
紛れもない事実です。
  
特に私はたんぱく質をたくさん摂るようにしているので
他の生き物をたくさん殺しながら生きているのです。
  
大量消費社会というのは聞こえはいいですが
大量の殺戮の上に成り立っている社会とも言えるのです。
  
かといって他の生き物を殺して捕食するということを
やめるわけにはいきません。
生きるということはどんなに洗練されて綺麗ぶっていても
結局はそういうことなんです。
そして子孫を殖やしたいという本能からか、
性を求めるという事実。
  
では、格好つけないで獣のように振舞うのか?
それとも生に怯えて自死を選ぶのか?
  
他の生き物を殺して捕食しなければいけないという事実を抱えたまま、
セックスをしたくてしたくてたまらない欲求を抱えたまま、
それでも夢を見たり、お洒落をしたり
格好をつけたり、優しくしたりということが
修練であり、生きる価値であると私は考えます。
  
矛盾を抱えながら生きて、考え続けること。
そこに美しさの本質があるように私には思えます。
それこそが名古屋のテレビ塔に書いてあったメッセージ
「生きる喜び」なのだと思います。
  
自分の抱えた矛盾を認知すると、人の矛盾も許容できる。
そういう裏づけがあって、人に優しくなったり、
それでも洗練されようと願う人が私は好きです。
  
きれいはきたない きたないはきれい
  
ニューレディー活動というのも
生や性にまつわる矛盾とはちょっと違うかもしれませんが
矛盾を体現したいという欲求がもしかしたら
根源にあるのかもしれませんね。
ふふふ。