解なき世界

子供の頃、
まだ私が受験慣れしていない頃
私はテストの解答欄に答え以外のいろいろなことをを書いてしまう子でした。
たとえば回答欄に()付けで、こういう意味で、とか、こうかもしれないとか
1つの正解だけを書くことを求められていたのに複数の答えを書いたり、
こう思っているなんて抽象的に書いたり。
   
今思うと自由な子供だったなと思いますが
そんな私も中学受験失敗、高校受験失敗と辛酸をなめるうちに
型どおりの回答をきっちり出すという行為にすっかり慣れてしまいました。
  
こうすりゃええんやろ!
こうすりゃええんやろ!
こうして、
こうして、
こうして、
こうして、
こうすりゃええんやろ!
  
という要領です。
上記の言い方についてはお店で実演します。
  
で、そんな思考方法に慣れてしまうと
問題を与えられなければ解決できない
正解がなければ解決できない
という、よくありがちな受験教育の弊害的思考に陥ったわけです。
  
で、それがわかったところで
教育のせいで!
とかいうつもりはありません。
解がある問題を与えられて、それを覚えて役立っていることも
たくさんありますから。
    
トラウマや刷り込みというのは確かに根強いものがありますが
気が付いたら自分で修正する。
人の不作為を責めても誰も得をしません。
自分で足りないなと思ったら、自分で補う。
だから私はトラウマを理由に起こる事件や作品は
あまり好きではありません。
映画版の「黒い家」くらいぶっ飛んでいたら話は別ですが。
  
そして結局は世の中に
正しい解など一つもないのです。
みんなで決めたルール(法律)はあるけど反則もあるし、
グレーゾーンもある。
  
規範とされているものもあるけど
それも見方や時代を変えたら変わります。
何を問題とするのかも思考のフレーム(軸)が変われば
定義の仕方がいくつもあります。
  
だからといって
無策にとか自分の心のままにというのも
それはそれで混乱を招くような気がします。
選択肢が多すぎて、かえって思考停止に陥る。
  
これもよくある話です。
   
解なき世界で自らの船の櫂(オール)までなくしてしまって
漂流するだけ。
  
それはまさに松任谷由実さん作曲のWOMANの世界
だけど私はLadyなのです。
私にはそれもやっぱり心地よくないのです。
  
自らの心の快適なところを探りながら
何らかのルールや思考の軸(フレーム)というのを
自分で作って生きていく。
フレームが多様になればなるほど多様な考えやものの見方が
できるようになる。
みんなで作ったルール(法律)にも理解が深まる。
  
久しぶりにだらだら当て所もないことを
書いてみたくなったので書いてみました。
  
要するに私、忙しすぎて現実逃避したかっただけなんです。
なんてね。ふふふ。