自分よりも興味があること

若い頃は自殺ということはいけないと思っていました。
昔、自殺を選んだ友人に対して、
当時のmixiの日記で亡くなられた後に
「あんた間違ってる」と書いてしまったことがあり、
自分の心の狭さに、いまだに歯軋りしたりします。
  
今のスタンスとしては、
私ならしないけど、そうする人がいるのは仕方が無い。
という感じです。
  
育ち方、考え方、感じ方、健康状態、精神状態、
人のことはわからないことばかりです。
だから、その人がそれを選んだということは
その人が出した結論で仕方がないと思っています。
  
生きながら、暴飲暴食や不摂生で「ゆっくり自殺」と思える行動をしている人もいますし、
健康に気を使っていても、ある日人に殺されてしまうかもしれません。
  
終わるというのも人生の必然なのだから
その幕切れ方法を選びたいというのも今はわかります。
  
私はしませんが。
  
私は自分が何を成し遂げるのかというものよりも
生と死や人類の作り出した自然のシステムや、社会システムに興味があり、
自ら命を絶ってしまった場合、その細部を経験することが
できなくなってしまうのが、もったいなくて、できません。
  
年をとって、体もガタが来ないと気付けないことが沢山あります。
悔しい思いも、惨めな思いも、そんな中でも幸せだなという思いも、
ありがたいなという思いも、経験してみたいのです。
次に生まれ変わったら、人間じゃないものになってしまうかもしれませんし、
せっかく人間で生まれてきたのだから、もういいよと言われるまで
いろいろと観察し、体験したいのです。
  
そして、それを書き留めておきたいのです。
  
私のこのブログも
おそらく私は独身で死んでいくので、
きっと死んだ後は、膨大なネットゴミの一部として
漂い続けるのかもしれません。
  
もしかして、次に生まれ変わった時に、
何かの偶然で発見して、
あぁこんなことを書いていた人がいるんだなぁ、
不思議と懐かしいなぁなんて思うのかもしれません。
  
自分で死を選ぶ人は
きっと自分にとても興味関心がある人で
とても責任感があって、いろいろと自分が好き過ぎて
許せなくなってしまうのかもしれませんね。
  
私はその点は自分に過度な期待をしなくなったところがあり、
それよりも自分が知らないことを知りたいとか
どういう風になっているのか体験したいという
好奇心の方が勝るように
少しずつシフトしてきたのだと思います。
それを自己保身というならそれでかまわないと思います。
  
今回のある研究職の方の死について。
とても優秀な彼に、もう少し早く、
好奇心、探究心を持って打ち込める自分以外の何かに
集中させてあげられたら、違う展開があったかもしれないなと思いました。