憎しみを糧にしないなんて

先日、クローズアップ現代でやっていた
ヘイトスピーチの特集を見て、すごく驚きました。
この現代日本であんなことが行われていたなんて。
  
私は暴力的なあれこれが嫌いなので
まず浮かんだのは嫌悪。
  
憎しみをあれだけむき出しにして
表現することが醜いということがわかっただけでも
反面教師として役に立ちました。
  
憎悪・嫌悪というのは大きなエネルギーです。
私の中にも普通にあります。
人間ですから暴力的な表現をしてしまうのもわかります。
でもそれは私の中の美学に反します。
  
私も若い頃
悪い条件で働かされたことがあり
雇用主を死ねくらいに思っていましたが
それを表現したことはありません。
  
付き合っていた恋人を人に取られたことがあり
死ねって思いましたが
それを表現したことはありません。
  
仮に歴史的背景で特権なり優遇なりを
持っていたとしても
特権や優遇は人を駄目にするものです。
そんなことで羨むより
自分の成長を考えることの方がはるかに大切です。
むしろもっと良い人間と付き合わなければならないという
モチベーションにすることの方がはるかに大切です。
  
私は憎しみの解消方法として
それを愛情に替えるほどの器量はないので
軽蔑に転化しました。
  
そして力をつけていつかこの目の前の相手に
ビクともしない人間になっていようと思っていました。
  
憎しみを糧にするってそういうサイクルだと思います。
頬を殴られた相手を愛せよなんて
とても思えませんが、軽蔑して糧にしてやることはできます。
  
憎しみを憎しみのまま表現すると
それにパワーを使われて、成長の糧になりません。
そこで得られるカタルシスなんてほんの一瞬。
しかも全く自分を輝かせない。
 
成長の糧にした結果がこの女装かよと言われたら
はいそうですとしか言えませんが、
私は若い頃より今の方がずっと優しく、ずっと賢くなっています。
  
人に対する憎しみや社会への不満を表現するより
自分が優しく賢くなる方が
ずっと楽しい人生が待っているのです。
  
あの憎しみを叫んでいる人達が
楽しい人生を生きているか?
余計なおせっかいなので忠告はしません。
  
楽しいの解釈も美しいの解釈も
人それぞれなのでなんともいえませんが
私にはあまりそうは見えませんでした。
  
軽蔑するというプロセスを経るので
あまり人に勧められることではありませんが
私はそうやって憎しみを糧に変えてきました。