自由の謳歌は

このところアメリカンビューティーという映画のことをよく思い出します。
人間はいくつでもやり直せると自由を謳歌し始めた中年男が
ゲイに間違われ、クローゼットの中年ゲイに殺されるという
なんとも切ない話なのですが、
この映画の構図はアメリカだけでなく
現在の世界の不安定さにもズバッと当てはまるような気がしてなりません。
  
そう、自由を謳歌する人間はその自由に対する責任だけでなく
自由を謳歌できない人間のフラストレーションも高めているということを
自覚しなければならないのです。
  
これは
私が自分勝手に生きて
家族という制度に自分を捧げてきた母からの攻撃を受けていることにも通じ
  
金持ちがお金を自由に使うことが
お金に困っている人たちからの嫉みを買うことにも通じ
  
表現の自由謳歌するものが
表現の制限で安定を保つ奉教人の恨みを買うことにも通じます。
  
特定の信仰を持たない、または非常にゆるい信仰で自由を謳歌するものは
信仰に身を捧げ、規律によって己を保とうとしている人の恨みを買うことを
自覚しなければならないのです。
  
他人は他人
自分は自分
と言い切れれば問題が起きないのですが
個人主義が発達したフランスで
表現の自由に対するテロが起こったことから
人間というのは割り切れる人ばかりではないということを
とても痛感させられました。
  
みんな他人が気になって
みんな自分が不安で。
  
私も、好き勝手な女装をする以上
抑制してその欲望を閉じ込めている人に
非難されること、恨まれることは覚悟しなければならないと思ったのです。
  
自由を謳歌する人間の覚悟はここにあると思います。
  
私はそれを和らげる唯一の手段は
エレガンスと愛嬌だと思っています。
  
だから、エレガンスというのは上昇志向の結果ではなく
防御の結果のものでもあるのだということを
とても思う私なのです。