大人になれば

昨日は近くの公園で軽く運動をした私です。
女装なのにね。おかしいわ。
  
ここ最近、砂漠の国で二人の方が捕らえられて
殺されて亡くなったわけですが
同じ悲しみなのに、自分も周りもそうでないような
取り扱いをしてしまいます。
  
この国では、いや世界ではもっと悲惨だったり
無残な死もたくさんあるのですが
まるで一番悲しいお話みたいな。
  
人間はカテゴライズしながら生きていくものです。
知らない人の死まで同じ力で悲しんでいたら
身が持ちません。
  
神様だったらそんなことないのかも知れないですけどね。
にんげんだもの
  
昨日もそんな事件があっても
太陽は降り注ぎ、私は緑の中を駆け抜けて行き
お腹がすいたから陳健一さんの冷凍シュウマイを食べて
りんごを1個皮ごと食べて寝ました。
  
カテゴライズして意味づけをして
自分の悲しみに備えているのでしょうか。
人の死を自分の糧にして、生きる意味を捉えなおそうとしているのでしょうか。
  
そんなことを考えながら
温かいお風呂にゆっくり入って
電気毛布の上でヌクヌクと寝ていくのです。
  
人間は人の命に自分の都合で軽重 貴賎 優劣をつける
利己的な生き物です。
DNAの運び屋という役目を果たさない私は
ただただ利己的なだけです。
  
休みの日は特にふてぶてしく、自分勝手な生き物です。
  
昔はそんな自分に悩んだり傷ついたりした日もありましたが
働いて、税金を納めて、消費行動を行い、経済に貢献する
という毎日が私を鍛えていったのでしょうか。
自分がどうしようもないことで悩むことはなくなりました。
逆に言えば自分がやりようのあったことについては
反省はよくします。
 
思えば自分のこと以外で繊細に悩んでいた頃は
生活力のない学生の時だったわ。
なんてことを思った冬の休日です。
  
やりようのないことについては
気に病まない鈍感さは
良いことなのか、悪いことなのかわかりませんが
私はそうして大人になっていった気がします。