多様性は一人の人間から

今日は多様性(ダイバーシティー)についての
私の経験を通じた考えを書いておきたいと思います。

多様性(ダイバーシティー)がこれからの社会/組織において大切だということが
言われて久しい日本ですが、実感としてはまだまだ浸透していないように思います。

たとえば社会においては
ママ友地獄のドラマが流行ったり、教育現場でもいじめ問題がまだ取り上げられます。
それは異質のものを排除する社会が根強く残っているという証なのかもしれません。

また、会社においては
コンプライアンスの浸透やセクシャルハラスメントに対する意識の高まりで
女性や私のようなニューレディーもだいぶ会社で働きやすくなってきましたが、
進んでいる会社でもまだまだ男社会で、女性が役員として活躍するのは
その女性が自ら始めた事業やオーナーの意向が強く働いた場合がほとんどで
俗に言うガラスの天井という状態はまだまだあるのだなと思います。
また新卒採用を重んじ、転職を蔑視する傾向はまだまだ根強くあります。

かくいう私自身も若いころは異質を排する側でした。
つまり、どちらかというといじめる側でした。
自分はメインストリームにいて、マジョリティであるということに疑いを持たず
マイノリティーの人々の気持ちも考えようとはしませんでした。

だからこそ実は中学生くらいから自分自身が異質(男なのに男が好き)だと気づいていたのに
それを受け入れることができなかったのです。
私は10代後半から20歳くらいまで優等生と実は男好きという自分の矛盾に苦しんでいました。

そこから抜け出すために、ガリ勉で頭でっかちだった私はシコシコと理論武装しました。
そしてようやくマイノリティであることを肯定できるようになったのです。
マイノリティであることを受け入れると、
今度はどっぷりマイノリティとしての考えに染まっていました。
つまり、マジョリティとしての自分を排除したのです。
女装を始めたのもこの時でした。
ある意味女装は私の中でマイノリティをどっぷり進んでやる!
という意思表示だったのかもしれません、

ところが学校を卒業して、働き始めてから、私の考え方は徐々に変わりました。
私はもともと評価されたい人間だったのです。
そこで会社の評価基準に合わせた人格を仮面として作りました。
変な色眼鏡で見られて評価を落としたくなかったからです。
私は評価をされて昇進をしました。
もっと評価されたくて、私は会社を転職し、さらにステップアップしていきました。

同時に私は女装をやめられませんでした。
女装は楽しいし、友達はいい人ばっかりだし、知的好奇心や刺激に満ち溢れていました。
そして、それは別に違法なことではなかったのです。

マジョリティの自分とマイノリティの自分
どっちの自分も大切で好きなのです。
そして大人になるにつれて、
自分の中にあらゆる矛盾があることに気づいていきます。

開き直りといえばその通りですが
ある時、私は生きていくためにその矛盾を受け入れることにしました。
いろいろあっていいんだと。
自分の中にいろいろあることを受け入れると他人のいろいろも許せるようになります。

今まで人の欠点や弱点を目ざとく見つけて、意地悪なことばかり考えていた私は
自分の中にもいろいろあるんだからと、他人のいろいろも仕方ないなと思うようになりました。
寛容という言葉の意味に気付いたのは30歳をとうに過ぎての頃でした。

そしてその自分自身への寛容から他者への寛容という段階を経て、
多様性の価値というものに気づいていき、
今は多様性が人間においても組織においても社会においても
生き延びていく上では大事だなと思うようになりました。

均質な私自身だったら、何か日常と違うことがあった時に対応しきれずにいたはずです。
今回の震災でも多様性ということが社会全体として試されているような気がします。
効率的で一刻も早い復興というのは行政サービスとして考えると、
税金も使われていることなので、その通りだと思いますが、
個人個人の支援についてはいろいろな考え方、やり方があっていいと思います。

まずは自分の中の異質を犯罪にならない限り、
どんなものでも肯定し、共存を考える。

そこから多様性のある組織/社会も始まるような気がします。