見られること 見ること

私は週一度campy! bar で女装給仕として働いていますが、
先日書いたミラ・レゾンという記事にもあるように
人からよく見られます。

杉本彩さんはそのような状態を
見られる度に綺麗になるの私、ゴージャス
と歌っていましたが、見られることの効用について
昨日の営業後、シンプルな真理に辿り着いたので備忘録として
書き留めておきます。

見られることは見ることなのです。

人から視線をロックオンされます。
そうすると人間の機能として見られていることを感じます。
それは海上保安庁の船が中国艦船からのレーザー照射を
認知したようにはっきりと感じます。
人間の本能でその視線の発信元を見遣ります。

ほら。私、人に見られながら、見返してる。
私は見られながら、見ていたのです。

そしてこの人を見るということは非常に沢山の考察を
私に与えてくれます。

SNSスマホでは画面を見遣ることはあっても
生の人間を見遣ることは出来ないのです。
生の人間の情報量たるや膨大なデータです。
その人のコンディション、表情から伺える人格、気分。
着ているもの、化粧、ヘアスタイルと人格の関連性。
ちょっとした仕草や言葉の端々から伺えるその人の過去。
若干スピリチュアルになりますがその人の持つ波動、
そして匂い。

土曜日のcampy! barはリーズナブルなので
いろいろな人がやってきます。
そして通りに面しているので沢山の人が通り過ぎます。
窓の外から気付かれないように中を見かける様子も
意外な程に気がつきます。ふふふ。

そのどれもが私にとって、今は面白いのです。
それは多分適正な規模でのやり取りだからということや
フィールドワークとして活用出来るだけのバックボーンが
今の私にあるからです。

もし、若い時にこの状態になったら、
それがもっと膨大な量になっていたら、
私もおかしくなっていたかもしれません。

子役出身のタレントさんや
若い頃から人気の絶頂を迎えてしまったアイドルの人々が
段々オカシクなるのも何となく理由がわかりました。
見過ぎてしまったのです。人間というものを。
若いのに、熟女のような表情になったり、
大人びてしまうのも視線の効用なのです。

見られた分だけ、見ることになる。

このシンプルな真理を肝に銘じて
明日からのニューレディー活動を行おうと思った
二月の日曜日の朝なのでした。