この世の花

先日名古屋のイベントで
日焼け男子コンテストの司会をエスム姐さんとやったと書きました。
  
コンテストとは勝者1人を決めるための競争です。
勝負はその場で決着がつきます。
同じ舞台に勝った人がいて、負けた人もいるのです。
ABBAの「Winner takes it all」が相応しい状況です。
  
そのことを残酷だという人がいます。
ミスコン反対運動の一因にもあったと思います。
もっともミスコン反対は競わせている内容が
男女の性差別を助長する内容という意味合いの方が強かったのですが、
昨今の運動会の手繋ぎゴール、順位決め回避という流れも
コンテスト反対の一因になっていると思います。
  
で、私自身はというと団塊ジュニアの世代で、
生まれた時からいつも競争でしたし、
1999年日本のドラァグクイーンが集合したDIVA JAPANの
ミスコンで優勝していますし、
毎年大晦日には女装紅白でギャラ倍額か半額かを
かけて勝負しているので競争には慣れているほうです。
  
ただ、いつも競争の当事者でした。
今回は当事者でない立場で競争の現場に立ってみて、
いろいろな考察があったので書き留めておきます。
  
まず私のようなドラァグクイーン(今はニューレディーですが)のイベント
というのは明らかにみんな個性で競っていて、負けたとしても、
選んだ人と価値観が合わなかった程度にしか考えませんでした。
  
ところが今回のような日焼け男子コンテストという曖昧な基準だと
日焼けしたかっこいい人気者を決める投票みたいな感じになって、
そうするとあんまり逃げ場がないなと思ったのです。
   
色の黒さだけで勝負するなら楽なんですけどね。
で、人気投票みたいになると、
そのコンテストに向けた準備の違いとかあっても
一瞬の空気で優劣が変わっちゃったりします。
  
だから、これは意外と精神鍛錬になる競争の場だなと
思ったのです。
  
で、何が言いたいかというと
それでもやっぱりコンテスト(競争)って必要だなということ。
勝つことも素晴らしいですが
たとえ勝たなくても、それは出た人自身の大事なプレゼンの場です。
ドラァグクイーンの勝負とも被りますが、負けたとしても
結局は審査する人との価値観が合わなかっただけです。
  
そんな価値観の齟齬を気にかけるより
その人にキラッと輝くものがあれば必ず自分の個性を
見つけてくれる人はいるのです。
  
でもまぁ、出場者はアラサーがほとんどだったから
このくらいはへっちゃらか。
  
って失礼ですね。ふふふ。
  
世界に一つだけの花
世の競争に出なければ
誰にも見つけられない花になってしまうのです。
  
それはそれでいいのかもしれませんが
私はそれを望みません。
自らを花と自覚したからです。
  
だからいいことばかりじゃないけど
競争の場というのが好きなのかもしれません。