格差問題
明日ママがいない
について今、いろいろと話題になっていますね。
昨日の記事でも書いたのですが
最近うそをうそのまま受け入れる面白さ
というのを理解できない人が増えてきた気がします。
フィクションなんてそもそもがつくり話なのに
何にでも完璧や公平や模範やリアルを求めるのはいかがなものかと
個人的には思います。
でもこの問題、見ていてつくづく面白いなぁと思うのです。
そこにはフィクションに対するリテラシーの格差問題が見えるからです。
ちなみに親切なニクヨさんがリテラシーという言葉を解説すると、
本来は読み書きという意味です。
ここ最近では新しいメディア、テクノロジーについて
それを使いこなせるかどうか、
正しい理解で情報を取捨選択でき、自分の血や肉にできる能力があるかどうか
というニュアンスで使われています。
大方のフィクションなどに対するリテラシーがある人は
今回のスポンサー降板や中止要請について、
「馬鹿げている」「ナンセンスだ」という
メッセージを発しています。
うそや偏見が混じった情報からでもそれを取り除き、
物語を通して作者が伝えたいメッセージや、
自分が深堀して考えなければならない問題を抽出できるからです。
対してそれに抗議をしている人たちは
リテラシーをまだ習得していない子供や
情報を鵜呑みにする人たちによる偏見を助長する
というスタンスです。
で、これも私が38年間生きてきて思うことは
人間というのは大体自分と同レベルの人間とつるむ傾向にあります。
リテラシーのある人は、リテラシーのある人ばかりが周りに集まるから
そんなリテラシーのない人間なんているの?というスタンスになるし
リテラシーのない人が周りに沢山いる人は
そんな玉石混合でしかも偏見を増長してしまうかもしれない情報を
流したら大変なことになるという危惧をいだきます。
だから、話は平行線なのです。
で、結局何が言いたいのかというと
この問題はメディアやフィクションに対するリテラシーの格差の問題なのです。
是正するにはメディア・フィクションに対するリテラシーを底上げする
しか方法はないと思います。
人間の作り出すものに完璧なものはないし、
人が作ったものに主観が宿らないことはないし、
そこに作った人の偏見が投影しないことは絶対にない。
それはテレビだけでなく、ネット、本などの紙媒体、劇場、
いろいろなメディアを通じてこれからも創作されていきます。
そしてメディアに乗せるために情報はかならず加工されます。
メディア自体の特性があるからです。
加工する目的はより効果的にコアメッセージを伝えたいため。
何のためにメッセージを伝えたいのか、
それは私にもわかりません。
人々が欲しているからということかもしれません。
送り手の自我かもしれません。
ともかく少数の人々が作成したメッセージが
メディアを通じて大量の人へのメッセージとなる。
それがマス・メディアを使ったマス・コミュニケーションなのです。
なんか学生時代みたいだわ。
コミュニケーションの快楽を覚えてしまった現代人は
それ無しの時代に戻れば良いと言われても
もう戻れないのが現実です。
ならばそれを使いこなしたり、上手に付き合う
リテラシーを教育しなければならない。
今回の件はメディアに流通するフィクションについての
リテラシーを高める格好の教材になると思います。
うそ や まやかし のないリアルなんてないのだから
うそ や まやかし のないフィクションなんてない
ということこそを教育した方が良いのです。
みんなが正義で、みんなが正しくて、みんなが公平なんて
そんな子供の学級会でも成立しないことを
テレビ局に要求するのが、そもそも無理があるのです。
メディアがどういう特性があって
どういう風に情報が加工される傾向があって、
どのようにメッセージが送られているかを
理解していれば、多少の情報操作も加味した上で
作品のメッセージを抽出できます。
コミュニケーションはグローバルになり
その伝達手段のメディアも日々のテクノロジーで変わっていきます。
世界中から好むと好まざると情報やフィクションが
伝わってきてしまう時代なのです。
少しの間遮断して距離をとることはできても
もう元には戻れないのが現状です。
だからこそメディアやフィクションに対応するリテラシーを
隅々の人まで教育するというのが
本来、取るべき対応策なのです。
そうでない限り、議論はいつまでも平行線です。
で、ここまで書いておいて言うのもなんですが
私、まだ「明日ママがいない」一回も見ていないです。
いい話ですね。