一人鍋に感じる悲喜こもごも

去年くらいから冬は大体一人鍋です。
温まるし、野菜はたくさん食べられるし、
手間はかからないし、おいしいので。
  
味もトマト鍋、塩こうじ鍋、豆乳鍋、キムチ鍋、味噌鍋、
コンソメの洋風鍋、トムヤムスープの素を使ったトムヤム鍋など
バラエティーに富んでいて、2日おきくらいに味を変えて楽しんでいます。
  
前までは一人鍋を普通にするようになるとは
考えていませんでしたが、
ひとたび卓上コンロを買って
一人鍋用の鍋をそろえてしまうと、
冬にこれ以外の選択はないのじゃないかと思うくらい一択です。
  
嗜好の変化というのも感じます。
前までは油揚げなんて全然好きじゃなかったのですが
最近鍋の時にはこれがないと寂しい。
私、ずぼらなので油抜きしないでばっと切って入れてしまうんですが
それでも十分おいしい。だしを含んでくたっとなったところなんて
最高においしいです。豆腐も好きになりました。
 
ここ3年ほど極度の冷え性に悩まされていて
冬は辛かったのですが、心なしか暖かいものを食べ始めてから
少しはましになったような気がします。
 
一人鍋というと少し前までは寂しさの象徴だったのに
私のフレーム(枠)が多様になったのでしょうか、
そんなに悲観するほど辛い状況ではないなと思うようになりました。
  
これを
老化と捕らえるか、哀しみと捕らえるか
健康増進と捕らえるか、喜びと捕らえるか
どのようにも捕らえられるなと思います。
  
一つの事象でも
思考の軸、感覚の軸、をいくつも持っていると
多様な感じ方、味わい方があるなと。
そもそもこの世に純粋な寂しさ、純粋な喜びなんてあるのでしょうか、
純粋な愛しさ、純粋な悲しさなんてあるのでしょうか、
とか思ってしまいます。
  
自分がいろいろ感じ、考えているように
他人もいろいろ感じ、考えている。
  
だから、単純に人の状態を決め付けてはいけないなと
一人鍋をつつきながら思うのです。
  
今日は最近考案しておいしかった味噌トマト鍋の予定です。
早く家に帰りたいです。ふふふ。